ちゃんとしたやつとは、何だ?
今日、実家にいたら、父が私の買ってきた細谷功さんの『考える練習帳』を手に取って、
「ちゃんとした本も読んでいるんだな」
と和やかな顔で言ってきた。
それに対し、
「いや、そりゃ読んでいるよ。そんな改まって、どうしたの?」
と普通のトーンで返し、
「いや、何となく。読んでいるんだなと思ったからさ」
と苦笑いにしながら返された。
何気ないやり取りだが、しばらくして振り返ると、違和感を感じてきた。
私は、ビジネス書も小説も読むが、最近は、雑誌『フットボリスタ』、『サッカーの新しい攻撃の教科書』、『ヒットの崩壊』、『誰が音楽をタダにした?』などの自分の好きなサッカーや音楽に関する本を読んでいた。
父は読書が趣味で、休みの時は、仕事に関わる分野の本やビジネス書を中心に、自分の部屋に篭り、ずっと読んでいる。
なので、普段の会話の中で、父はよく私が何の本を読んでいるかを聞いてくる。
だから、私がどういう本を読んでいて、どんな趣味を持っているかを父は知っている。
私の中では、ちゃんとしたとは何だ?という疑問が出てきた。
おそらく、父的には、仕事の向けてだったり、自己研磨のために読んでいるんだなと感心しつつ、茶化しつつ言ったような感じだった。
そういう意味だろうし、何も思わないのだが、ちゃんとしたという言葉に引っかかる。
仕事に向けてだったり、自己研磨のための本以外は、ちゃんとしていないのだろうか。
揚げ足を取れば、そんな風にも捉えられなくもないなと思えてきた。
揚げ足を取った捉え方をどんどん深掘りしていけば、
サッカーや音楽の本は、ちゃんとしていないのか。
これらの本を読んでいて、ちゃんとしていると言えるのは誰なのか。
サッカーや音楽に携わっている仕事について人が読めば、ちゃんとしているのか。
そんな風に勝手に深掘りしていくと、自分が好きなものであるサッカーと音楽がちゃんとしていないと否定されているように思えてきてしまった。
勝手な深読みで、勝手な妄想でしかないのだが、ちょっと腹が立ってきてしまった。
父は、悪意はないだろうし、こちらが勝手に深読みした意味で、言ったわけではないだろう。
勝手に飛躍した深掘りをして、勝手にムカついている自分の姿が茶番だなと思え、どんどんバカバカしくなり、どうでもよくなった。
大したことではないなと結論づけて、考えるのをやめた。
考えるのをやめて、暫くすると自分もちゃんとしたという言葉は使うし、具体的な経験は思い出せなかったが、意図せず、相手の何かを否定するように捉えかねない言葉を使っているよなと思い始めた。
そう思えば思うほど、自分もしてしまうことだから、相手に難癖をつけるような形で求めたり、言及するのは違うなとは思う。
ただ自分に対しては、このブログを書き始めた動機にも近いが、自分の考えや思いをうまく言葉で表現できるようになりたい。
だから、今日感じたような細かいところまで、気をつけていかなければいけないし、相手に向かって何を言っているのかをしっかり意識できるようにならなきゃとなりました。ちゃんちゃん。
書くことがなさ過ぎて、これまでとは言葉遣いも変わり、作文みたいな感じになってしまいましたが、三日坊主にならずに済みました。
駄文を読んで頂き、ありがとうございました。
では、また明日。